さわる/さわられる
2007年5月17日昨日、3週間ぶりに中国人の先生のレッスンを受けた。なかなか悪いくせが抜けず、弓の持ち方を直されることが多い。日本人の先生にもそうだし、中国人の先生にもそうだ。自然に手と手が触れ合う。ほんの何秒かのこと。その短い数秒で先生を味わう。なんといえばいいのか、先生の確かさ、元気のよさみたいなものが伝わってきてうれしかった。
こんなふうに好意を持っている対象(人でも動物でも草花でも虫でも)とふれあうことは、癒しであるし、昂揚であるし、全く喜ばしいこと。
前に養護学校に楽器をもって遊びに行ったとき、体験の時間があった。生徒のみんなに付いて使い方を教えていると、ひとり人に触られることを極端に嫌う子がいた。最初のうち、ふれあいを拒否していることがわからなかったため、メンバー全員が入れ替わり立ち替わりふれてしまった。時間が経つにつれ、彼のムカツキ度はうなぎ登りに上昇し、ついには奇声を上げて、人につばするようになってしまった。
以来スキンシップのときちょっと考えちゃう。嫌な思いさせないかなぁ、と。いやなものにふれられることは不愉快。それは知ってたけれども、ふれることについてはあたしは無頓着だったなと我が身を振り返る出来事だった。
こんなふうに好意を持っている対象(人でも動物でも草花でも虫でも)とふれあうことは、癒しであるし、昂揚であるし、全く喜ばしいこと。
前に養護学校に楽器をもって遊びに行ったとき、体験の時間があった。生徒のみんなに付いて使い方を教えていると、ひとり人に触られることを極端に嫌う子がいた。最初のうち、ふれあいを拒否していることがわからなかったため、メンバー全員が入れ替わり立ち替わりふれてしまった。時間が経つにつれ、彼のムカツキ度はうなぎ登りに上昇し、ついには奇声を上げて、人につばするようになってしまった。
以来スキンシップのときちょっと考えちゃう。嫌な思いさせないかなぁ、と。いやなものにふれられることは不愉快。それは知ってたけれども、ふれることについてはあたしは無頓着だったなと我が身を振り返る出来事だった。
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