Memento mori

2004年12月17日
何日か前、新聞に出ていた雑誌の広告を隅から隅まで丁寧に読んでしまった。確か文藝春秋の「各界著名人58名が望む理想の死に方 三笠宮殿下、瀬戸内寂聴からフジ子・へミング、ダライ・ラマまで」というもの。各人のひと言ずつが見出し風に載せられていた。

死を思わない日はない。

こうして文章を書きながら過去を振り返り、死を思わなかった日を探すのだが見つからない。幼少の頃から死を想うのが癖になっているようなのだ。苦しい時には死んだら楽になるだろうかと思い、うれしい時にはこのまま死んでしまいたいくらいと思い、悲しいときにも、絶頂の中にいるときですら、死はピッタリとわたしに寄り添っている。

死ぬチャンスを狙っている、とかいうのではない。ただ想像するのだ、自分の終わりを。生をプロデュースするのに似ている。命を自分の体から送り出すときに、このようなスタイルで、このような照明で、このような状況で、とプランを練る。実際には全てが思い通りになるわけでは決してないんだけれど(生まれてくる方にも都合があるから)自分が主人公の物語を演出するのは、大変やりがいのある仕事だ。

ひどい痛みを死と関連づけて考えてみる。例えば抜歯。例えば怪我。例えば出産。あれこれと自分の思考を操ることができるうちは、真の死から遠い場所にいる時かもしれないと思う。痛みの中にあって「神様、助けて!」とか「お願い、早くここから逃がして!」と頭の中の声が叫んでいるときは頂点ではない。てっぺんは真っ白だ。

死に届く瞬間はきっと真っ白なんじゃないか、と思うから、今、死を思っておくのは悪いことじゃないな。でも一瞬一瞬を大切に、なんて力まなくてもいい。ただ自分の価値観からはずれることは極力せずに、信念を貫きながら静かに激しく生き続けていくこと、うまく表現できないけれどこんなようなことを大切にメメントモリ。先に逝った誰かを胸の中に温めながらメメントモリ。

Time medicine

2004年12月13日
上半身だけが急いでも、体はひとつ、下半身がついてこない。頭がわかっていても、心は判ってくれない。心がわかっても、理性が邪魔をする。具合が悪いのに、雨の中を寒さに震えながら歩く。苦しいはずなのに、身のうちのどこかで冷めた目が自分自身を見つめている。苦しみのちょいと向こうの幸せの様子を、経験が耳の奥で囁いている。

全く、厄介、自分ってやつは。

ずーっと飲み続けてきた「時間薬」が処方されなくなって久しい。おまけに「生きててよかった」とか思う始末。

全く、厄介、自分ってやつは。

A feeling of nothingness

2004年11月9日
太字だしフォントスタイルが好きなので、タイトルを英語にしています。でもこの使い方で合ってるのかな…といつも悩んでる。カッコワル。

今日のわたし、ちょっと(だいぶ)めげてる。いやな目をした人たちに会いすぎた。場の雰囲気の悪さに胃が痛くなってしまった。今日が最後ならどんなにかいいのに、今日が初日なのだ。一年間つき合わなくてはならないメンバーの顔合わせ。

やれやれ、この虚無感をどこへ捨てに行こう。

Mannequin

2004年10月27日
ついこの間、店じまいをした小さな紳士用洋装店。昨日車でその前を通りかかると、カイロプラクティックの治療院に替わっていた。おじさん向け衣装をいつも着せられていたショーウインドウの中のマネキンは、洋服を脱がされ苦悩のポーズをとらされている。肩、膝、腰、足首などに包帯やサポーターをつけていた。ビフォーアフターを知っている人たちからはきっと脱力系の笑いを取れたはず。

昨夜は秋雪ちゃんのドラマを観た。お母さん役が松田聖子だったのでなんだかちょっとなぁと思いながら見始めたんだけど、父親役の船越英一郎がとてもハマリ役で、松田聖子よりもそちらに視線を持っていかれる。見る前は「松田聖子の媚び媚びした演技、見たくない」と思っていたのだがそんなこともなかった。ただその美しさには何度となく目を奪われた。スタイルも肌も顔立ちも素晴らしい。

ドキュメンタリー番組で以前見た本当の秋雪ちゃんのママは、なんの飾り気もないいわゆる普通の中年女性だった。番組が放映された当時、保っていたプロポーションが4度目の出産で崩れ元に戻らぬことを悩んでいたわたしは、秋雪ちゃんのお母さんから「あんたの悩みは軸がずれている」とキッパリ言われたような気がしたものだった。秋雪ちゃんのお母さんはあるがままの人間だったから。化粧や流行の洋服で自分を鎧う必要のない強い鋼い人だった(になっていた)からだ。

テレビを通してその人となりの一部分を垣間見ただけだったけれど、以降は違うことにも心や時間を割くことが多くなった。スッピンの人も、白髪だらけの人も、歯の欠けている人も、皺だらけの人も、コロコロ太っている人も、それが人格を損なうものでは決してなくそれぞれに素晴らしい笑顔、豊かな心を持っていることも再確認した。豊かな心に素晴らしい容姿が備わっていれば最高なんだけど、世の中なかなか両立するのは難しいなぁと思う。でもこんなこと、命の問題の前ではちっぽけなこと、どうでもいいこと。

purr

2004年10月13日
寒い。タオル地のシーツとなめらかな素材の毛布の間にもぐり込む。ひとつの枕をチビッコと共有し、頬を寄せ合う。

そんなとき、スペンサー言うところの「みぞおちのあたりでなにか熱いものがグッと」わき上がってくるような、猫がついついグルグルと喉を鳴らしてしまうような、なんとも表現に困る症状が体に表れる。心って気持ちって、確かに頭じゃない体のどこかでポッと生まれて、じわじわと上に上がってくるもんなんだなぁって実感する。

家族が病気に罹らず元気でいること。食べるに困らないお金があること。雨風しのぐ家があること。まわりの人が三角の眼をしていないこと。読む本がいっぱいあること。話し話されたい友がいること。自分の捨てたゴミをまとめて処理場に運んでくれる人々がいること。誰かに守られながら暮らしているという事実。

ぎゅーっと感謝する。ほんの時々。

心癒された記事

2004年9月5日
http://www.yomiuri.co.jp/iryou/renai/20040731sr11.htm

ちょっと前に読売新聞で ↑ の記事を読んだ。読んだら心がふ〜っと柔らかく軽くなった。別に医師に「むむっ!? アナタはちょっと…」と診断されたことがあるわけではない。けれどもごくごく身近に、薬で症状を抑えねば生きられない人もたくさんいるし、誰もがみんな一度や二度、いやもうちょっと「線の上」を歩いた経験があるんじゃないんだろうか。

自分の心を見つめ続ける。見つめすぎて自分を追いつめてしまうことがある。なりたい自分が遠すぎて何もしたくなくなってしまう。そんなとき、こんなふうに一回笑い飛ばしてしまえばいいのかもしれない。なんて思ったりして。

こだまする言葉

2004年9月1日
自 尊ーー自分で自分をすぐれたものと思いこむこと。うぬぼれること。
     また、自分を大切にし品位を傷つけないようにすること。

自尊心ーー自分の人格を大切にする気持ち。また、自分の思想や言動などに
     自信を持ち、他からの干渉を排除する態度。プライド。

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自尊の気持ちがなさ過ぎた過去。自尊の気持ちを大事にしすぎているんじゃないかと不安に思う現在。ビーズ、絵画、ピアノ、勉強……子どもの頃にやり残したことを35才過ぎて一生懸命やってしまっているわたし。ココロが実年齢になかなか追いつかない。普通の人はきっともっとオトナで、順序もアベコベでなく、ぐんぐん成長していってるんだろうになぁ。あーあ。なにやってんだろう、わたし…と最近思うことが多いのです。

重ならない

2004年8月22日
               
日記をつけるのはなんでだろ。思うことを、ろくろく考えもしないで口にしがちな自分を少しは変えるため。忘れたくないことをここにしまっておいて、あとから取り出して味わうため。それにただただ単純に、あの日わたしは何をしていたんだっけ?って思ったときに、ちょっと確認できると便利だから。

人と人の間

2004年2月18日
               

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