魔法少女ぷにっとさんの書かれた文章を読んで、「あの日」が蘇りました。「あの日」。それはわたしが性教育について深く考えさせられるようになった、そのきっかけの日だったのでございます(岸田今日子風)。
昨日横断歩道を渡っているときに「もしかして晴れ女?」と聞かれ「そうなの!大体、行事の時には晴れ!」と威張って答えたけれど、ホントはわたし晴れ女じゃないかもしれません。今日はBBQ。横殴りの強い雨に吹き付けられながら、景色の悪い橋の下で無理矢理BBQ。14:00頃、逃げるようにして撤収してきました。そういえば、この間のGWも4〜5日はキャンプの予定だったのに、台風みたいなお天気で断念したんだった。今度「晴れ女か雨女か」と訊かれたら、じっとりと陰気な感じで「雨女です」と答えよう。十分その資格があると思う。

今度は6月6日に外メシをするのだけれど、その時に活かせるように今日のBBQの反省点を書いておこう。

1.天気の悪い時には無理矢理BBQをおこなわないこと。
2.肉や野菜を家に忘れないこと(今日忘れた)。史上最強のうつけ者の称号を得る。
3.ローストビーフを焼きすぎると焼豚ならぬ「焼き牛」になる。
4.サンチュはもう持っていかなくていい。いつも出し忘れる。つまり必要とされていない。

太極拳とは

2004年5月15日
じいさんとばあさんだけのものではなく。

ブルース・リーや爆笑問題の太田さんや
田中律子やもしかしたらものまねコロッケも

やったらとってもかっちょいい
結構ハードな運動です。でした。

インドの仁丹

2004年5月15日
友人というのか、姐さん、というのか。わたしのほうからしてみると(友人なんて言ったら厚かましく思われてしまうだろうか)と眩しく思っている方との2回目のお出かけ。あぁわたしのこのドキドキは、なんとも懐かしい、ええと、中学生の時のデートみたい。こうして書きながらも照れくささにクネクネ身をよじりたくなる。

まぁ中学生デートとの顕著な違いは、何かを喰らっている姿を見られてもぜーんぜん気にしないこと。昔はスパゲティとかハンバーガーとか食べるとき、苦労しませんでしたか?わたしは自意識過剰野郎でしたので、口開けるのもモグモグするのも恥ずかしくって恥ずかしくって。今の「人を喰ったような」と親にたしなめられるキャラクターが嘘のようです。

そんなことはおいといて。

昨日はおいしいインドカレーのお店に連れて行っていただいた。カボチャのカレーもエビのカレーもほうれん草のカレーも、それからなんといってもナンのおいしかったこと!やわらかくふわふわでバターの風味が豊か。なかなか子連れで辛いカレーを食べにいくチャンスがない毎日を送っているので、それはそれはおいしくおいしくいただきました。

幸せな気持ちでレジへと向かい、お金を払うとき、ふと見るとお砂糖入れのような容器に色とりどりのツブツブが入っているのが見えました。「ちょっと口に入れてみな」という風情を漂わせてスプーンも添えてあります。ドライココナッツの細かくなったヤツが見えるので、明らかに食べ物。アイス屋さんにあったら間違いなくトッピング用だろうという感じ。レジにいた人が食べてみろと言うので、スプーンに一杯ずつ手のひらに乗せる。好奇心でいっぱいのわたしは、ためらうことなく全部口の中に放り込んでみました。

「!」

レジの男性は「噛んで噛んで!」だか「飲んで!飲んで!」とジェスチャーまじりにレクチャーしてくれるが、わたしの気持ちとしては「吐きてェ!吐きてェ!」。

この彼言うところの「インドの仁丹」は、海外の安い口紅か香水を間違って口の中に入れてしまった、あのときの味がしました。全ての幸福な味の記憶を消し去るような威力を持っています。夜眠る前の歯磨きをするまで、なにを食べても飲んでも「インドの仁丹」の味に支配され続けた。おそろしい、インドの仁丹!

ちなみに「姐さん」は、スプーン一杯のおよそ10分の1程度を慎重に味見していた。さすがなのです。ヤラレタ。

観劇する

2004年5月13日
友人に付き合って観劇する。右手のツメを左手の腕に立てたりするなどの
努力もむなしく、眠りに落ちる。背もたれに頭を強打して目覚める。

涙 

2004年5月12日 友達
忘れないように書いておこうと思って。
友達の涙。友達の赤ちゃんの死。ダンナの
暴力。息子の引きこもり。絶え間ない仕事。
全ての家事。育児。行きたくない場所は
だんなの好んで行くところ。例えば海。
 
この友達とわたしの共通項を探す。
ふたりともが楽しめて癒されるものや
場所や物を探す。遠くじゃなくていい。
贅沢じゃなくていい。特別じゃなくて
いい。

口約束だけじゃなくて必ずどこかに
一緒に息抜きに出かけること。出かけ
られなくっても、花壇の縁に座って
一緒に子供を遊ばせて語らうこと。
楽しいことや得することを分け合うこと。

大人になってからできる友達は貴重です。
こどもの話や天気の話、テレビの話以外の
「自分の話」をしたいと思わせてくれる
友達であるのならなおさら大事にしなくては。

わたしは自分に対して自信を持てないことが
多いから、こうして書いておかないと、すぐに
臆病風に吹かれる。「わたしなんて…」とザリガニの
ようにシッポから素早く逃げてしまう。

それじゃもういけない。そろそろ変わらないと。
心からの安寧をつかみ損ねる、そんな気がして。

blank

2004年5月12日 母さんは…
月曜日、子供たちと一緒にカラオケに行く。モニターに映し出されるのは、その歌を歌っている本人のPV。…おぉ!いつの間にこんな風になってたの。

ひとりで出かけた帰り道。匂いに誘われ、☆バクスカフェに入る。注文してお金を払ってラテを受け取る。手慣れていたはずのこの流れを忘れている。品物を受け取るカウンターがわからなくってちょっとまごつく。…かっこわるい、あたし。

順調に流れる人の波に、従順に乗っていけない。まるで本流にいつまでたっても合流できない車のようだ。人ごみを歩いているとしばしば人にぶつかる。もっと上手に自分を転がさなければ。

3〜4年の間、人ごみを避け、リビングやキッチンを中心に暮らし、ほとんど毎日の夕方、おじゃるまるの歌なんかを娘たちと合唱したりして過ごしているうちに、世間に置いていかれちゃったなぁ。そろそろリハビリ、始めましょか。

電話が鳴る

2004年5月7日
今日はよく電話が鳴る日だった。わたしは電話があんまり得意じゃないほうだから、普段、うちの電話はあんまり鳴らない。

主夫している知人とワカサギ釣りの話で盛り上がって30分。今度一緒にBBQする友人とメニューの話で30分。岐阜に越して行った友人と怪談で30分。助産師の先生とあーだのこーだの30分。

なんでみんな30分なのかというと、それが末っ子のタイムリミットだからだ。体の中に時計でも入ってるんだろうか。決まって30分経つ頃「あーんあんあん」と泣くもんだから、相手が気を使って「またね!」と切る。久しぶりだったな「話足りないな」なんて相手に言ったのは。

こんな電話の他にも事務的な電話やら間違い電話やらが多く、そろそろ電話を買い替えないと限界みたいだ。子機が壊れていて、ずっと壁にかけてある親機に縛り付けられちゃうの。ブクブク沸騰している鍋や、煙の出ているフライパンにあと2歩で辿り着けるのに、あぁ届かない!なんてやるのはもういやだな。明日買いに行こう。
(ネタバレだらけです!ご注意)

アキ・カウリスマキの作品を初めて観た。なんとも不思議な雰囲気。ながら作業の合間に見始めたのだが、気がつくとものすごく集中していた。なにせ冒頭の暴行シーンが凄まじい。絶対に死んじゃうな、という激しさ。しかし意に反して男は歩き、一度は死に、またもや意表をついて生き返る。この主人公の”過去のない男”が黙ってする、さまざまなことの裏にある心をいちいち想像させられる。歌謡曲というのか演歌というのか、流れている独特の音楽が、効果的に寡黙な男の心をこちらの心へと流し込んでくる。「あれ?」歌詞が日本語だ。誰が歌っていたのだろう?と確かめてみると、なんとクレイジー・ケン・バンドだった。この映画のサイトhttp://www.eurospace.co.jp/kako/index2.htmlのサウンドトラックの解説に「クレイジーケンバンドの<ハワイの夜>が流れる場面は、日本人にとっては爆笑モノなはずだが、なぜか切ない…>とあるが、全くその通り。クレイジーケンバンドもよかったが、わたしは老女性シンガーの唄う歌がとても気に入った。しみじみと沁みてくる。強烈な印象は残さないけれど、なぜかこうして翌日もなんとなく思い出してしまうような、そんな映画。

DVD アミューズソフト販売 2003/09/26 ¥3,990 フィンランドの異才アキ・カウリスマキ監督が、記憶をなくした男の戸惑いと淡い恋をしみじみと語る、カンヌ映画祭グランプリ&主演女優賞受賞作。ヘルシンキにやって来た男が暴漢に襲われ、記憶喪失に陥ってしまう。彼は港湾のコンテナで生活を始め、食事や服の面倒をみてくれる救世軍の女性に恋をするが、銀行強盗に巻き込まれたことから…
買えもしないのにチェロのオークションをチェックしている。時々、ひどくわたしを惹き付ける商品がある。買っちまうか、という笑いを含んだささやき声がどこからか聞こえてくる。

この間からウオッチリストに入れているのはこんなチェロだ。
http://page.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/58619815

「この人からチェロを買って、時々会わせてやりたいと思うの」と夫に話しかけると「やめとけよ。きっと変人だぜ」と彼は言う。そうだろうか?そんはことはどうでもいい。きっとわたしたち、気が合うと思うんだけど、お金がないの。残念だよ。
この監督の映画を観ると、必ず胸に浮かぶことがある。それは子供時代の記憶だ。16才の頃のわたしは、山間部から高校へのおよそ10キロの道のりを、雨の日も風の日も晴れた日も、そして病める時も健やかなる時も、自転車で往復していた。自転車をこいでいる時のわたしは、絶えずとりとめのないことを考えていたものだが、その考え事を妨げるのは、信号機の光の色だった。

誰が言い始めたのか憶えていないが、きっと迷信好きな友人が言ったんだろう「信号が黄色から赤に変わる間に横断歩道を渡れたら、その日はラッキーデーになるんだよ」。

わたしは小学生の頃からこの類いのジンクスが大好きで、誰かが「フォルクスワーゲンビートルを見た数だけいいことがある」と言えば必死で数え、挙げ句、家族で車に乗ってどこかへ出かける時などには「(ワーゲンを)最初に見つけた人にのみラッキーが訪れる」などという珍妙なルールまで作り上げ、当時は父母さえもその早い者勝ちゲームに夢中になったものだった。

高校生になった私は、心の隅ではばかばかしいと思いながらも、またもやジンクスゲームを始めてしまった。黄色になりかけの信号に飛び込んでゆく。それが楽しくてならない。右折車にクラクションを鳴らされようが、警官にピーッと笛を吹かれようがお構いなし。何か「いいこと」がほしい。できればいくつもほしい。今日仮に「いいこと」がなかったとしたら、多分「いいこと」は明日に繰り越されたんだろう。

今思えば「アンタ大丈夫?」と首を傾げたくなるような思い込みだが、当時の私は父母の離婚問題、またそれに伴う引っ越しや転校など様々な不安にまみれていたので、きっとひとつでも多くのラッキーを必要としていたのだと思う。

長々と愚にもつかないことを書き連ねてしまったけれど、本当にこの監督の作品を観るたびに、嬉々として黄色信号へと突っ込んでいったあの気持ちを思い出す。あの気持ち。多分わたしは身を賭して祈っていたのだろう。もしも車に轢かれても、ひょっとしたらわたしは笑ったのではないか。奇跡の海のベスのように。疲れ果て横たわったグレースのように。

ところで、この作品のラストシーン。わたしの中の「かくあるべきわたし」は項垂れていたが、「かくしておくべきわたし」は拍手喝采を送っていた。最近、自分の中に棲む荒馬に手を焼くことが多い。それにしても。ニコール・キッドマンは美しかったです。

素 

2004年5月2日 友達
女も35才にもなれば、なかなか上手に「素」を隠すことができるものだ。理想の性格を模した化粧をしたり、心意気を表す服を着たりと、人は「なりたい自分」を演出することができる。できるだけうまく笑う。絶妙のタイミングで相づちを打つ。わたしはしっかりとしています。わたしは誠実です。わたしは無害です。わたしはがんばり屋さんです。わたしは常識的です。だけどわたしは一風変わってます。わたしは…わたしは…わたしは…

ところが近頃、装う自分の奥底をじっと注意深く見つめる瞳に出会うことがある。静かだが強い光り方をしている眼に見つめられると、わたしは恥ずかしくなって下を向いたりしてしまう。ところが、そういう相手の顔はと言えば、赤ちゃんだった頃からきっとこんな顔していたんだろうなぁ、なんてことを考えさせるほどあどけない人相だったりする。話をしていると体がポカポカとあたたかくなってきてリラックスし、ついぽろりと本心をもらしてしまう。

そんなことを、アルコールなしでやってしまう相手に恥をかかせない、というのもそういう人たちの特長のひとつだ。楽しくてあたたかでうれしい時間を共に過ごして、幸せを味わう。その上、心でコロコロと転がして楽しむ「宿題」というお土産をくれたりもする。

今日もそんな出会いがあって、帰り道、電車に揺られながらふと気がついたんだけれども、これはきっとご褒美なんだ。自分では「できてないできてない、たどり着けない」とくよくよすることが多かったけれど、もしかするとわたしはわたしなりにがんばれていたので、命も絶たずに生きてきたので、誰かが肩をたたいて「おつかれさん」ってしてくれているのかもしれない。

なーんて思ったりして。

ひとり寝

2004年5月1日 母さんは…
広島に行こうか行くまいか少々悩んだが、やはり今回は行かないことにした。夫とムスメ3人は、昨日の夜、車で2時間ほど離れた夫の実家へと出かけていった。

末っ子とわたしとが離ればなれで眠る初めての夜である。いつもよりのんびりと風呂に入る。髪の毛を念入りに乾かし、無伴奏のCDをかけ、枕を二つ重ねうつぶせて桐野夏生の「グロテスク」を読む。

いつもは4,5畳の部屋いっぱいに布団を敷き、ぴったりとくっつきあって眠るチビッコどもとわたし。ナンバー2と3にはちゃんと部屋があり、ベッドにもかわいいカバーをかけてあるのだが、1年ほど前に「ねぇママの部屋にお泊まりさせてよ」とねだられてうっかり泊めたが最後、もう子供部屋では寝なくなってしまった。「ひとりっきりでおもいっきり体をのばして寝てみたいなぁ」と思っていたが、いざ「じゃあやってみな」という状況になるとなんともさみしいもの。今夜はあたし、眠れそうにないわ……確かにそう思ったのだが、ふと気がつくと朝になっていた。

ルーツ

2004年4月28日
GWの過ごし方について悩んでいる。ナンバー1以外の娘を全て夫にくっつけて、夫の実家に送り込み、自分は1〜2日のんびりしようと企んでいたが、母から広島に一緒に行かないかと誘われてぐらついている。

ノラさんの日記の中におじいさまの話が出てきてから、わたしも自分の祖父の人生がなんだか妙に気になりだしたので、健在の祖母に会って、祖父のことを根掘り葉掘り聞いてみたいと思っていたのだ。

わたしの祖父はハワイに生まれた。戦争が始まり(どちらの戦争の時かはわからない)祖父の父母は成長した子供だけをハワイに残し、若かった祖父やその兄弟を故郷広島に帰らせた。祖父には継ぐべき家名、広大な山林などがあったはずだが、なぜかそれらを投げうって弟に跡取りを譲り、自分は海軍に志願してしまう。

海軍に入った祖父のことを詳しく知っているものはいない。すでに故人の大叔父にはよく戦争中の話をしていたようだが、その会話はいつも英語でなされていたと言う。つまりは人にあまり聞かせたくなかったのだろう。祖母にある時聞いてみた「おじいちゃんは戦争のとき、どこにいたの?」「さぁてねぇ、どこじゃったかな。確かアンボンいうたかなぁ」

インドネシア諸島アンボン。検索エンジンに「アンボン」と打ち込んでみると「アンボンでなにが裁かれたか」という映画がすぐに見つかる。アンボン捕虜収容所における日本軍のオーストラリア兵捕虜虐殺事件が題材の映画のようである。

祖父は戦争が終わってから1年ほどして復員した。すぐに帰ってこられなかったのは、祖父の乗っていた「船」(どのような船なのかわからない)は、戦争がまもなく終わろうとする頃、南洋で沈み、多くの仲間たちと共に木の板棒切れなどにつかまり、何日間か漂流したのち、米軍に救い上げられ捕虜となったからである。捕虜となるまでに失われていく仲間たちの命。そんな中で生き残った自分。そのことについては少々母に語っていたようで、母はあたかも自分が経験したことのように何度も話をする。

収容所で祖父は他の捕虜とは違う待遇を受けることができた。英語を解し話すことができたので、通訳として働くことができたからだという。…と母から聞く、祖父の戦中に関する話はこんなところまで。広島の山あいの村に戻った祖父は、帰ってすぐに授かった母を溺愛した。どのぐらい愛したかといえば、祖母の母乳を一切飲ませず、わざわざハワイから取り寄せた粉ミルクだけを自らの手で飲ませ、四六時中抱いて離さず、果てはおむつの中に指を入れておき、排便排尿するやいなや取り替える、といった具合だったそうだ。

無口で、レーガン元大統領によく似た面差しのダンディーな祖父。祖母が港へ見送り出迎えに行っていても祖母には気づかず、目の前を女たちに囲まれて素通りしていったという祖父。亡くなって早18年。あなたの人生をいつかちゃんと知りたい。

数年前に届いた封筒。祖父母の村がダムに沈むため、その土地にまつわる係累のもの全てに承諾確認書が郵送されてきたのだ。祖父母の前の代からの家系図が同封されていた。ハワイ、ロスアンジェルス、世界のあちこちに広がる遠く薄い血縁者。残念ながらその封筒は母がなくしてしまったようで、もう一度読むことも叶わない。

今回母と旅すれば、ルーツをたどるライフワークをやっと始められそうな気がするのだが、様々な事情によってためらう自分がいる。
この本の中に出てきた「久恵」が、しばらくの間、頭の中に棲みついて困りました。とにかく強烈なキャラクター。「海辺のカフカ」のナカタさんと入れ替わりにやっと出て行ってくれた。

4月26日の日記

2004年4月26日
本日は秘密のみ
車に乗って窓から外を眺めているのが好きだ。大きな口を開け舌を突き出しながら、雨粒を集めている少年。不二家のペコちゃんに気づき、少しの間向かい合う。ペコちゃんも少年もベロが出ていて、おかしな図。道行く人も笑って見ている。

買い物が長引いて、帰るのは日暮れてからになった。

空にはトルコの国旗のような月。普段聴いても「ケッ!」と思うような曲が心にしみてくる。早く家に帰ろう、と思う。バックミラーには若い男が鼻くそを食べているのが映っている。

セロを弾く

2004年4月18日 音楽
この間、整体治療院に行った時に先生が言った「穏やかに暮らせるといいね」と。確かに近頃のわたしは少々怒りっぽかった。自分で思うに、マイペースでチームワークが苦手、という子供の頃からの悪癖を直すべく、極力たくさんの人波に揉まれよ!と自分を叱咤激励しすぎてしまったのかも。子供系の用事も多く、やっと自分の時間を取れそう、と思った時には理不尽な横槍に邪魔され自由になれず、やることなすこと裏目裏目に出て、体内を転がり回る怒りの球はもう爆発寸前。昨日も「あたしにどうしろっていうのさ」という類いの電話を受け、あーでもないこーでもないと悩み、わたしが「かくあるべき」と思う自分と、幼い時分から引きずってきている「人の急所を刺して高笑い」するような低級な自分が、ホッ!ハッ!ホッ!ハッ!とフェンシングしているような心模様。

今日は午後から家族で弦楽器のコンサートに出かけた。あたたか且つたいへん高度な演奏を驕る気持ちなく聴かせてくれる、地域の有志で構成された素敵な弦楽団だった。やはり音楽はテクニックだけでは伝わるものが半減する。ステージと聴衆の間に流れる何かが必要だ。今日のコンサートにはそれがあった。それだけでも本当にうれしかったが、なんと弾きたい楽器を弾かせてくれる、という企画があって、わたしもチェロを弾かせていただけたのだ!生まれて初めて触れるチェロ。開放弦のみの曲をコントラバス、ヴィオラ、ヴァイオリンと合わせて演奏した。高揚した。

こうして今、夜中にこれを書いていても、なんともいえないうれしさが心を温めてくれているのを感じる。思い続けていればいつか願いは叶う、というが、果たしてわたしがチェロを習う日は訪れるのだろうか。…とこんな取り留めのないことを考えている間に、くだらない悩み事の解決方法がいつの間にか見つかっていた。例によってそれはホントに簡単なことなのだった。がっくりと安心する。
今日のあたしは猛烈に機嫌が悪い。

あたしという人間の成分の50パーセントほどを、
普段は優しさや思いやりでできている、と人に
思わせるよう努力し、また「そうであるはずだ」と
己すら騙して暮らしているのだが、今日はだめ。

仏頂面で外を歩く。いつもはチビッコの味方を
自負しているのに、今日のあたしはベビーカーを
押しながら仲良さそうに歩く家族連れにさえ

ウラウラウラウラッ!ちんたらちんたら歩いてんじゃ
ねェぞ!ウラッ!

と、頭突きしてしまいそうなくらいで。皮膚のすぐ下を、
カブトムシの幼虫みたいな怒りがうねうねと縦横無尽に
這い回り、

昨日、動物園でパンダの「ランラン」と「カンカン」の
剥製を、思いがけず見つけてしみじみしたことや、

象のペニスがあまりにも巨大で、しかもヒトのそれとは
異なり、自由自在に動かすことができるのを見、腹の底から
笑ったりしたことも、

布団からおひさまのいい匂いがしていても、
柔軟剤を使っていないのに洗濯物がやわらかくても、
ヤマザキ春のパンまつりのお皿がいっぱいもらえても、

母さんは、前歯の裏側あたりまで怒りで満たされていて。
口を開こうとするとくやしくて泣いてしまいそうで。
泣くとマスカラが落ちてくるから。

だからみんなとも口をきかないの。

こんな日には、白い小さなハムスターにでも
どれひとつ癒されてみるか、と手を入れたら

ぢぇーぢぇーぢぇー!

と、吠えられてしまった。

…もう、寝る。
テレビにラブシーンが映っている時の子供たちの顔がおもしろい。
テレビよりよっぽどおもしろいので、画面を見ずに、みんなの表情を
観察している。ついでに夫の顔も見てみる。恥じらっている様子だ。
ニヤニヤしているわたしを母が見て、さらに笑っている。上には上がいる。

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